カテゴリ:教育
- 親は見られている[ 2010-12-18 22:44 ]
- 寄り道の教育力[ 2010-02-02 00:21 ]
- 「問うことを学ぶ」[ 2009-12-20 01:22 ]
- 『いのちの食べかた』[ 2009-02-22 23:53 ]
- お粗末な食育現場[ 2009-01-24 00:26 ]
- 哀悼[ 2008-11-22 15:08 ]
- 路上の遊び場[ 2008-11-03 23:18 ]
- 有意義な一週間でした[ 2008-10-20 00:01 ]
- 『ボクの学校は山と川』[ 2008-06-25 23:14 ]
- "Freedom Writers"を観る[ 2008-06-05 00:43 ]
親は見られている
最近、長男のラーメンを食べる姿が僕に似てきたと言う。特に何が似ているかというと、お恥ずかしい話なのだが、スープに浮いているネギや沈んでいる麺などをすくおうとするしぐさがそっくりらしい。こうした単に癖が似ているというよりも、行動における類似点ということであれば、長男は僕の普段何気なくしているラーメンの食べ方を見て、無意識のうちにでも真似をしてしまったということなのだろう。子どもは親の鏡なのだろう。つまり、親の態度や口調、考え方などを近くで見ている子どもが自然と習得してしまい、親の真似をしていることがあるように思う。
先日も、ある元小学校教師の方のお話を聞いていて、興味深いことをおっしゃっていた。よく学生や大人が「小学生なのに、○○が上手だね」みたいなことを言う人がいるが、ではいつ小学生よりも学生や大人が優れた存在になるというのか。例えば小学生なのに表現力が豊かだね、と言う場合、まるで小学生は幼稚だから、大した表現力もないはずだ、などと大人の勝手な先入観で見下した態度が言下に含まれている、と言う。そもそも教育などという言葉自体が、大人が未熟な子どもを成長させる上から目線で語られることの多い概念ではないか。しかし、実は子どには大人よりも遥かに優れた感受性があり、逆に大人の方が色々なしがらみに縛られて、物事の見方が狭くなっていることも多くなってはしないだろうか。つまり、子どもを育てるためには、子どもから学ぶという姿勢を持たなければならないのである。
子どもの持つ素直さが、良くも悪くも大人の影響を直に受けやすくしている。親(大人)は子どもに見られている。子どもを問題視する前に、子どもを育てた大人社会にどんな問題があるのか、問われなければならない。
先日も、ある元小学校教師の方のお話を聞いていて、興味深いことをおっしゃっていた。よく学生や大人が「小学生なのに、○○が上手だね」みたいなことを言う人がいるが、ではいつ小学生よりも学生や大人が優れた存在になるというのか。例えば小学生なのに表現力が豊かだね、と言う場合、まるで小学生は幼稚だから、大した表現力もないはずだ、などと大人の勝手な先入観で見下した態度が言下に含まれている、と言う。そもそも教育などという言葉自体が、大人が未熟な子どもを成長させる上から目線で語られることの多い概念ではないか。しかし、実は子どには大人よりも遥かに優れた感受性があり、逆に大人の方が色々なしがらみに縛られて、物事の見方が狭くなっていることも多くなってはしないだろうか。つまり、子どもを育てるためには、子どもから学ぶという姿勢を持たなければならないのである。
子どもの持つ素直さが、良くも悪くも大人の影響を直に受けやすくしている。親(大人)は子どもに見られている。子どもを問題視する前に、子どもを育てた大人社会にどんな問題があるのか、問われなければならない。
寄り道の教育力
早いもので2月、受験シーズンに入ってきた。金沢はこのところしばらく雪は降っておらず、すっかり道端に残っていた残雪も溶けた。ここ数日は雨模様だが、恐らく本来なら雪に変わるのだろう。昨年よりは雪が多かったとは言え、降る量は結局は少なかったようだ。
娘も昨年末に3歳になり、幼稚園に通い始めた。いつも朝は、僕の出勤と合わせて、幼稚園バスの停留所まで一緒に歩いていく。子どもの足だとどうしても10分以上はかかる。大人にとっては、バスに間に合うことだけを考えてどんどんと先に進んでいきたいと考える。しかし、子どもは決して急ごうとしない。つい「バスに間に合わなくなっちゃうよ」と声をかけてしまうこともしばしばで、一瞬は一緒に早足(駆け足)になる。しかし、そう長くは続かない。娘は歩く道々を楽しんでいるのだ。
金沢は歩道の両端に家に沿って側溝があり、玄関口や車庫に面した側溝の上には鉄製、木製、格子状のものなど様々なふたがしてある。出入り口と関係ないところは側溝がむき出しになっている。娘はそんな側溝の上にしてある様々なふたの上を歩くのが大好きなのだ。ふたとふたの間に30cmほどの「穴」が空いていると、一瞬立ち止まって考え込んだ後、思い切ってジャンプする。側溝に限らず、縁石の上を歩くのも好きで、綱渡りのように10cmほどの縁石の上を最後まで渡りきった時はやはり嬉しそうな顔をする。時には、道すがら、ある家から顔を出したおばあちゃんに手を振って挨拶することもある。
思い起こせば僕も小さかった頃、近所のお店に買い物に行った時、ビルの側面にできた幅10数センチの出っ張り部分を最後まで歩くことを何度もチャレンジしたことがある。そうした、本来の目的とは違うことであっても、例えば縁石を最後まで渡りきった達成感とか、道端に咲いていた花を見つけたとか、道で出会った人とか、そうしたものからも多くのことを学んでいるのだ。大人になるにつれ、目的に向かってただまい進することだけを求められることが多くなる。しかし、道端に目を向けることを忘れ、辺りの様子や風景には目もくれずに一身腐乱に突き進むことだけが果たしていいのか。子どもはそうした寄り道から学ぶことを知っている。大人はもっと子どもから学ばなければならない。だから、大人も先に急ぐばかりでなく、ゆっくりと周囲を見ながら歩いてみたい。
娘も昨年末に3歳になり、幼稚園に通い始めた。いつも朝は、僕の出勤と合わせて、幼稚園バスの停留所まで一緒に歩いていく。子どもの足だとどうしても10分以上はかかる。大人にとっては、バスに間に合うことだけを考えてどんどんと先に進んでいきたいと考える。しかし、子どもは決して急ごうとしない。つい「バスに間に合わなくなっちゃうよ」と声をかけてしまうこともしばしばで、一瞬は一緒に早足(駆け足)になる。しかし、そう長くは続かない。娘は歩く道々を楽しんでいるのだ。
金沢は歩道の両端に家に沿って側溝があり、玄関口や車庫に面した側溝の上には鉄製、木製、格子状のものなど様々なふたがしてある。出入り口と関係ないところは側溝がむき出しになっている。娘はそんな側溝の上にしてある様々なふたの上を歩くのが大好きなのだ。ふたとふたの間に30cmほどの「穴」が空いていると、一瞬立ち止まって考え込んだ後、思い切ってジャンプする。側溝に限らず、縁石の上を歩くのも好きで、綱渡りのように10cmほどの縁石の上を最後まで渡りきった時はやはり嬉しそうな顔をする。時には、道すがら、ある家から顔を出したおばあちゃんに手を振って挨拶することもある。
思い起こせば僕も小さかった頃、近所のお店に買い物に行った時、ビルの側面にできた幅10数センチの出っ張り部分を最後まで歩くことを何度もチャレンジしたことがある。そうした、本来の目的とは違うことであっても、例えば縁石を最後まで渡りきった達成感とか、道端に咲いていた花を見つけたとか、道で出会った人とか、そうしたものからも多くのことを学んでいるのだ。大人になるにつれ、目的に向かってただまい進することだけを求められることが多くなる。しかし、道端に目を向けることを忘れ、辺りの様子や風景には目もくれずに一身腐乱に突き進むことだけが果たしていいのか。子どもはそうした寄り道から学ぶことを知っている。大人はもっと子どもから学ばなければならない。だから、大人も先に急ぐばかりでなく、ゆっくりと周囲を見ながら歩いてみたい。
「問うことを学ぶ」
今年の教育実習も無事終わった。実習中は手分けして実習校へ挨拶回りをし、実習生の研究授業を参観させてもらう。行くたびに思うことだが、学生たちの授業や子どもに対するひたむきな姿は見ていてすがすがしく、感動を覚える。
もちろん、まだ学生であって、1時間全てを使っての授業なんて初めての経験だから、多くの点で不十分ではある。とにかく指導案通りに進めようと先へ先へと急いでしまったり、子どもたちの思いがけない反応や質問にうまく答えられなかったり、板書の速度が遅いとか字の大きさがまちまちだとか、問題点を数えだしたらきりがない。こんな学生を受け入れてくださる小中学校の先生方には、本当にお忙しい中ご面倒をおかけして申し訳なくも感じる。でも、一様に学生たちは実習を終えて達成感を覚えて帰ってくるし、経験したことが大きな成長の糧となっていると感じているようだ。
教育学者武田忠が、真の学びとは問うことを学ぶことだ、ということを書いている。その通りだと思う。特に実習生の場合、どうしても最初は決まりきった内容、定式的なまとめで授業を終わらせてしまうことが多い。例えば、ある学生が食育の授業で「正しいおやつの食べ方」というテーマで話した。結論としては、「おやつの量や食べる時間を考えて食べよう」という内容で終わらせていた。つまり、食べ過ぎると晩御飯が食べられないし、時間が遅くても同じことになってしまう。おかしは栄養バランスが通常の食事と比べると偏っているから、量や時間を考えて食べよう、と言いたかったのだ。素直な小学3年生の多くは「はい」と頷いていたが、その中で1人が突然「でも、結局どのくらい食べていいのか分からない」と発言したのだ。学生はこの質問にとまどってしまう。そこで担任や栄養教諭が最後に補足説明として、金沢市ではおやつとして200kcalを目安としていること、ポテトチップス1袋だと大体3分の1くらいの量が適当なことを子どもたちに伝えていた。
僕は、子どもの側からこのような素直な発言が飛び出したことがとても大切と考える。何故なら、このような子どもたちの本音が教室で出てくるというのは、教師と児童の関係がよい証拠だからである。子どもたちは教師の言葉に素直に心を開き、自分の日常生活と照らし合わせて疑問を出してきたのだ。子どもが単に知識や徳目として何かを教えられ鵜呑みにさせられるのでなく、教えられたことを自分たちの生き様に照らし合わせて考えるという点もすばらしいことだ。子どもが問いを発せられるような教室作り、関係作り、授業作りが大切であることを、今回の実習参観で強く感じさせられた。
もちろん、まだ学生であって、1時間全てを使っての授業なんて初めての経験だから、多くの点で不十分ではある。とにかく指導案通りに進めようと先へ先へと急いでしまったり、子どもたちの思いがけない反応や質問にうまく答えられなかったり、板書の速度が遅いとか字の大きさがまちまちだとか、問題点を数えだしたらきりがない。こんな学生を受け入れてくださる小中学校の先生方には、本当にお忙しい中ご面倒をおかけして申し訳なくも感じる。でも、一様に学生たちは実習を終えて達成感を覚えて帰ってくるし、経験したことが大きな成長の糧となっていると感じているようだ。
教育学者武田忠が、真の学びとは問うことを学ぶことだ、ということを書いている。その通りだと思う。特に実習生の場合、どうしても最初は決まりきった内容、定式的なまとめで授業を終わらせてしまうことが多い。例えば、ある学生が食育の授業で「正しいおやつの食べ方」というテーマで話した。結論としては、「おやつの量や食べる時間を考えて食べよう」という内容で終わらせていた。つまり、食べ過ぎると晩御飯が食べられないし、時間が遅くても同じことになってしまう。おかしは栄養バランスが通常の食事と比べると偏っているから、量や時間を考えて食べよう、と言いたかったのだ。素直な小学3年生の多くは「はい」と頷いていたが、その中で1人が突然「でも、結局どのくらい食べていいのか分からない」と発言したのだ。学生はこの質問にとまどってしまう。そこで担任や栄養教諭が最後に補足説明として、金沢市ではおやつとして200kcalを目安としていること、ポテトチップス1袋だと大体3分の1くらいの量が適当なことを子どもたちに伝えていた。
僕は、子どもの側からこのような素直な発言が飛び出したことがとても大切と考える。何故なら、このような子どもたちの本音が教室で出てくるというのは、教師と児童の関係がよい証拠だからである。子どもたちは教師の言葉に素直に心を開き、自分の日常生活と照らし合わせて疑問を出してきたのだ。子どもが単に知識や徳目として何かを教えられ鵜呑みにさせられるのでなく、教えられたことを自分たちの生き様に照らし合わせて考えるという点もすばらしいことだ。子どもが問いを発せられるような教室作り、関係作り、授業作りが大切であることを、今回の実習参観で強く感じさせられた。
『いのちの食べかた』
今年の金沢は雪が例年よりもかなり少なかったそうです。多い時は大学の中も除雪車がないと車の移動も出来ないくらいだったそうですが、今年はせいぜい10~20cm程度積もっただけで、溶けるのも速かったです。温暖化の影響なんでしょうか。
しばらく更新日時が経ってしまったのですが、改めて食育について考えてみたいと思います。
この1年は、栄養教諭に関連する仕事をした関係で、今までは余り考えたこともなかった食育について考える機会になりました。どうも、栄養教育(食育)というのは、往々にして栄養指導、すなわちバランスよく食べるとか、好き嫌いをなくすとか、カルシウムなどの栄養素が体のどういった部分を育てるとか、いわゆる健康と栄養についての指導か、そうでなければ、朝ごはんをしっかり食べよう、間食や夜食は控えよう、みたいな生活指導的な話が非常に多いことが分かりました。でも、そんな内容だけでいいのか、と思っております。
ニコラス・ゲイハルターという監督による映画『いのちの食べかた(Our Daily Bread)』をたまたま見付けて見ました。同名の本に、森達也氏の著作があります。映画のタイトルは、この森氏の本から借用してつけられたとのこと。で、この映画の内容ですが、我々が普段食べている食料はどういう工程を経て口に入るのか、という、我々が見過ごしている部分を淡々と描いているドキュメンタリーです。トマト、リンゴといった野菜果物から、魚、鶏・豚・牛までが、どのように加工されているのか撮影されています。当然、豚や牛が解体されるシーンも出てきます。改めて、普段我々が食べている肉は生きている動物を殺して食べるのだ(正にいのちを食べている)と、まざまざと気付かせてくれる映像です。それも、見事なくらいのオートメーション化で、次から次へと機械にかけられた豚や牛が手際よく切り刻まれていく。
でも、こうした屠畜は、かつては当たり前のように生活の中にあったことでした。農村部では、家で飼っていた鶏を晩御飯のために絞めることは当然の光景でした。漫画家矢口高雄氏の自伝エッセー『ボクの先生は山と川』にも、山で捕まえた雉を家に持って帰って、雉鍋にしたというエピソードが出てきます。そんな当たり前のことが忘れられて、いつの間にか私たちは店に並んでいる既に切られた肉の塊を目にするだけになりました。
知り合いになった大学教授は、実際に授業で鶏を屠畜し食べるという実践をされた経験があり、「Rさんも食育に関わっているなら、授業でやりませんか」と誘われました。正直、まだ二の足を踏んでいます。でも、本当に食べるということはいのちのリレーなのだ、とつくづく思わされました。
森達也氏の著作では、この屠畜について、もう少し違う角度で書かれています。つまり、日本人はこうした動物を切り刻む作業を身分差別と結びつけてきたから、忘れ去ってきたのだと。確かに、そういう面はあります。日本の負の歴史として、そういう事実は知っておくべきでしょう。食育をする際に、こうした現代の私たちが目をつぶってきた事柄に目を向けさせることも重要なのではないでしょうか。
新しい年度は、自分なりの角度で食育を考えてみる授業を展開してみたいと現在計画中です。
しばらく更新日時が経ってしまったのですが、改めて食育について考えてみたいと思います。
この1年は、栄養教諭に関連する仕事をした関係で、今までは余り考えたこともなかった食育について考える機会になりました。どうも、栄養教育(食育)というのは、往々にして栄養指導、すなわちバランスよく食べるとか、好き嫌いをなくすとか、カルシウムなどの栄養素が体のどういった部分を育てるとか、いわゆる健康と栄養についての指導か、そうでなければ、朝ごはんをしっかり食べよう、間食や夜食は控えよう、みたいな生活指導的な話が非常に多いことが分かりました。でも、そんな内容だけでいいのか、と思っております。
ニコラス・ゲイハルターという監督による映画『いのちの食べかた(Our Daily Bread)』をたまたま見付けて見ました。同名の本に、森達也氏の著作があります。映画のタイトルは、この森氏の本から借用してつけられたとのこと。で、この映画の内容ですが、我々が普段食べている食料はどういう工程を経て口に入るのか、という、我々が見過ごしている部分を淡々と描いているドキュメンタリーです。トマト、リンゴといった野菜果物から、魚、鶏・豚・牛までが、どのように加工されているのか撮影されています。当然、豚や牛が解体されるシーンも出てきます。改めて、普段我々が食べている肉は生きている動物を殺して食べるのだ(正にいのちを食べている)と、まざまざと気付かせてくれる映像です。それも、見事なくらいのオートメーション化で、次から次へと機械にかけられた豚や牛が手際よく切り刻まれていく。
でも、こうした屠畜は、かつては当たり前のように生活の中にあったことでした。農村部では、家で飼っていた鶏を晩御飯のために絞めることは当然の光景でした。漫画家矢口高雄氏の自伝エッセー『ボクの先生は山と川』にも、山で捕まえた雉を家に持って帰って、雉鍋にしたというエピソードが出てきます。そんな当たり前のことが忘れられて、いつの間にか私たちは店に並んでいる既に切られた肉の塊を目にするだけになりました。
知り合いになった大学教授は、実際に授業で鶏を屠畜し食べるという実践をされた経験があり、「Rさんも食育に関わっているなら、授業でやりませんか」と誘われました。正直、まだ二の足を踏んでいます。でも、本当に食べるということはいのちのリレーなのだ、とつくづく思わされました。
森達也氏の著作では、この屠畜について、もう少し違う角度で書かれています。つまり、日本人はこうした動物を切り刻む作業を身分差別と結びつけてきたから、忘れ去ってきたのだと。確かに、そういう面はあります。日本の負の歴史として、そういう事実は知っておくべきでしょう。食育をする際に、こうした現代の私たちが目をつぶってきた事柄に目を向けさせることも重要なのではないでしょうか。
新しい年度は、自分なりの角度で食育を考えてみる授業を展開してみたいと現在計画中です。
お粗末な食育現場
ずっと東京にいる間は、どちらかと言うと僕は教育史の研究を細々と志して、その真似事みたいなことをしてきたのだが、金沢に来てからは教育現場を実際に見て歩くチャンスに恵まれ、今ではだいぶ現場のことを意識した見方をするようになった。やはり現状の教育を考え語るためには、どのような教育が実際行われているのか知らなければいけないと痛感している。
この10ヶ月で小学校、中学校、高校、大学と様々な授業を参観させてもらった。多くの実践記録も読ませてもらったし、現場の生の話も聞かせてもらった。そして、実りのある豊かな学びをすることの難しさを痛感した。どうして難しいのか、それは様々な理由があるだろう。その1つに、教える内容に自由がきかなくなっている現状があると言えよう。教科書通りの内容を理解させ定着させるよう上からも指導が入り、教師たちもそのレベルで手一杯な様子が現場を見ていると、本当に学校は一体何を教え育てる場所なのかと思わされる。
最近は学校現場でも授業の一環で食育が行われることが増えた。具体的には学活、総合の時間や保健体育、道徳などの時間に担任と栄養教諭が分担して子どもと関わることが多い。かつては給食職員として各校に配置されていた栄養士が、4年ほど前から教員資格を持って授業を担当出来るようになった。食育の実施は文部科学省もかなり力を入れているところで、新学習指導要領でも食育の重要性が明記されている。ところが、いくつかの食育実践の様子を見させていただいたのだが、正直言って内容の薄いものが多い。
ある中学校での授業(中3の保健体育)では、一中学生の冬休みの怠惰な過ごし方を紙芝居で紹介し、早寝早起きをしよう、朝ごはんをしっかり食べよう、寝る前の夜食や間食は止めよう、といった「標語」をただ生徒達に確認させている内容だった。はっきり言って、もう最初の10分で見ているのが辛くなった。食育が単なる生活指導、規則正しい生活を送るよう徳育的指導に終わってしまっているのだ。そんな話を今更中学3年にもなって繰り返す必要があるのだろうか。資料としていただいた年間計画を見ても、このような徳育的内容か、栄養学的指導だけで終わってしまっているように見受けられた。果たして、食育とはこんな薄っぺらい話をするためのものなのだろうか。
その中学校は実に環境のいい場所にあった。すなわち、学校の周囲は田畑なのだ。割とすぐ近くには山も見える、自然の多い場所だ。本来食物というのは、こういった自然の恵みであり、自然の中で活かされていること、人間が生きていくには自然と共存していくしかないことを肌で感じさせることが大切ではないか。食品の生み出される場所に目を向けることで、自分と自然とのつながりを意識し、より広く深い視野で食物、地域、環境といった事象の理解が深まる。それが、単に「三食しっかり食べましょう」とか「バランスよく好き嫌いなく食べましょう」などと教えているだけでは、一向に子どもたちの食に対する豊かな思いは育たない。
本当に意味ある食育とはどんな内容なのか。今年はじっくりと考えてみたいと思う。
この10ヶ月で小学校、中学校、高校、大学と様々な授業を参観させてもらった。多くの実践記録も読ませてもらったし、現場の生の話も聞かせてもらった。そして、実りのある豊かな学びをすることの難しさを痛感した。どうして難しいのか、それは様々な理由があるだろう。その1つに、教える内容に自由がきかなくなっている現状があると言えよう。教科書通りの内容を理解させ定着させるよう上からも指導が入り、教師たちもそのレベルで手一杯な様子が現場を見ていると、本当に学校は一体何を教え育てる場所なのかと思わされる。
最近は学校現場でも授業の一環で食育が行われることが増えた。具体的には学活、総合の時間や保健体育、道徳などの時間に担任と栄養教諭が分担して子どもと関わることが多い。かつては給食職員として各校に配置されていた栄養士が、4年ほど前から教員資格を持って授業を担当出来るようになった。食育の実施は文部科学省もかなり力を入れているところで、新学習指導要領でも食育の重要性が明記されている。ところが、いくつかの食育実践の様子を見させていただいたのだが、正直言って内容の薄いものが多い。
ある中学校での授業(中3の保健体育)では、一中学生の冬休みの怠惰な過ごし方を紙芝居で紹介し、早寝早起きをしよう、朝ごはんをしっかり食べよう、寝る前の夜食や間食は止めよう、といった「標語」をただ生徒達に確認させている内容だった。はっきり言って、もう最初の10分で見ているのが辛くなった。食育が単なる生活指導、規則正しい生活を送るよう徳育的指導に終わってしまっているのだ。そんな話を今更中学3年にもなって繰り返す必要があるのだろうか。資料としていただいた年間計画を見ても、このような徳育的内容か、栄養学的指導だけで終わってしまっているように見受けられた。果たして、食育とはこんな薄っぺらい話をするためのものなのだろうか。
その中学校は実に環境のいい場所にあった。すなわち、学校の周囲は田畑なのだ。割とすぐ近くには山も見える、自然の多い場所だ。本来食物というのは、こういった自然の恵みであり、自然の中で活かされていること、人間が生きていくには自然と共存していくしかないことを肌で感じさせることが大切ではないか。食品の生み出される場所に目を向けることで、自分と自然とのつながりを意識し、より広く深い視野で食物、地域、環境といった事象の理解が深まる。それが、単に「三食しっかり食べましょう」とか「バランスよく好き嫌いなく食べましょう」などと教えているだけでは、一向に子どもたちの食に対する豊かな思いは育たない。
本当に意味ある食育とはどんな内容なのか。今年はじっくりと考えてみたいと思う。
哀悼
今朝の新聞を見て知り、ショックを受けている。大分県在住の元中学校養護教諭の山田泉さんが亡くなられたのだ。まだ49歳だったそうだ。
山田さんについては、このブログでも何度か取り上げた。そして、光栄なことに、ご本人からも何度かコメントをいただいた。直接お会いしたことはないが、ウェブ上で数回でも言葉を交わさせていただけたことは、心に残る出来事だった。
山田さんの教育実践は何度かNHKをはじめテレビでも取り上げられた。ご本人に乳がんが発見されて、それ以来闘病生活をしながら教師の仕事も可能な限り続けておられた。自分の体験をもとに、また様々なゲストを招いたり独自のスタイルで授業を続け、「いのち」や自分自身の生き方について見つめさせる実践をずっと追求されていた。映像や著書などでしか知らないが、その中でも、生徒たちと真正面からぶつかって、壁にぶつかっている子どもととことん付き合い、その子が前を向いて生きていけるように、粘り強くサポートしている姿が印象的だった。
フォーク歌手笠木透の歌「スミレの花」の中に、「1人を救うこともできず、人類のことを考えていた僕」という歌詞がある。或る心を病んだ女性にささげた歌だ。大局的な動きをとらえて、総合的な考えを持つことも大切だし、そういう役割の人は必要だ。しかし、それだけでは実はいけない。実際私たちの生活の中では、多くの人と接触している。悩み苦しんでいる目の前の人に気をかけずに、偉そうな話を大上段構えて語ることが如何に無意味なことか。教師という仕事は、目の前の子どもたちとどう向き合っていくかが仕事と言えよう。最近の報道で、子どもの暴力事件が増えているというニュースが流れていた。暴力というのは、子どもたちの心からの訴えが世の中(大人)に届かず、それが爆発してしまうことの表れと考えられる。それを、倫理や道徳を振りかざして押さえつけるのでなく、子どもたちの暴力(暴力というのは他人だけでなく自分にも向かう)に至る原因を一緒に探ることが必要なのだ。そのためには、教師をはじめ大人が子どもにしっかり向き合うことが求められる。山田さんは、そんな一番大切なことができた教師だったと思う。
こうした優れた人材が早逝するのは本当に残念だし、悔しくも感じる。人の命には限りがある。山田さんは、今生きている私たちに、大きなメッセージを残された。
山田さんご本人が、このブログでのコメントで見ず知らずの者に対して、気さくに「山ちゃんと呼んで」と書いてくださったのは本当に印象に残っている。どうぞ山ちゃん、ゆっくり休んでください。
山田さんについては、このブログでも何度か取り上げた。そして、光栄なことに、ご本人からも何度かコメントをいただいた。直接お会いしたことはないが、ウェブ上で数回でも言葉を交わさせていただけたことは、心に残る出来事だった。
山田さんの教育実践は何度かNHKをはじめテレビでも取り上げられた。ご本人に乳がんが発見されて、それ以来闘病生活をしながら教師の仕事も可能な限り続けておられた。自分の体験をもとに、また様々なゲストを招いたり独自のスタイルで授業を続け、「いのち」や自分自身の生き方について見つめさせる実践をずっと追求されていた。映像や著書などでしか知らないが、その中でも、生徒たちと真正面からぶつかって、壁にぶつかっている子どもととことん付き合い、その子が前を向いて生きていけるように、粘り強くサポートしている姿が印象的だった。
フォーク歌手笠木透の歌「スミレの花」の中に、「1人を救うこともできず、人類のことを考えていた僕」という歌詞がある。或る心を病んだ女性にささげた歌だ。大局的な動きをとらえて、総合的な考えを持つことも大切だし、そういう役割の人は必要だ。しかし、それだけでは実はいけない。実際私たちの生活の中では、多くの人と接触している。悩み苦しんでいる目の前の人に気をかけずに、偉そうな話を大上段構えて語ることが如何に無意味なことか。教師という仕事は、目の前の子どもたちとどう向き合っていくかが仕事と言えよう。最近の報道で、子どもの暴力事件が増えているというニュースが流れていた。暴力というのは、子どもたちの心からの訴えが世の中(大人)に届かず、それが爆発してしまうことの表れと考えられる。それを、倫理や道徳を振りかざして押さえつけるのでなく、子どもたちの暴力(暴力というのは他人だけでなく自分にも向かう)に至る原因を一緒に探ることが必要なのだ。そのためには、教師をはじめ大人が子どもにしっかり向き合うことが求められる。山田さんは、そんな一番大切なことができた教師だったと思う。
こうした優れた人材が早逝するのは本当に残念だし、悔しくも感じる。人の命には限りがある。山田さんは、今生きている私たちに、大きなメッセージを残された。
山田さんご本人が、このブログでのコメントで見ず知らずの者に対して、気さくに「山ちゃんと呼んで」と書いてくださったのは本当に印象に残っている。どうぞ山ちゃん、ゆっくり休んでください。
路上の遊び場
金沢に来てからは仕事で拘束される時間が長くなったため、家族で過ごす時間が減ったように思う。この連休は比較的ゆっくりと時間を過ごせて、家族との時間も持てたのはよかった。
昨日は、大型スーパーに買い物に行った後、しばらくの間、他の用事でいなかった妻が車で迎えに来てくれるまで、駐車場横の歩道で子どもたちと待っていた。
子どもの眼の付けどころはすごい。まず次男が、「あ、どんぐり!」と言うので何処にあるかと探してみると、木の枝に付いている木の実を発見したのだった。次男と長男はそのどんぐりを取ろうと木をゆすってみたりよじ登ったり。一方の長女は落ち葉を拾って遊び始めた。長男はそれを見て、道に落ちている落ち葉を1箇所に集めだした。長女も面白がって葉っぱを拾っては落ち葉を山のように積んでいく。たちまち、こんもりした葉っぱの山ができた。「この中で焼き芋できそうだね」と長男。
金沢の天気は変わりやすい。陽が差したかと思うと突然雨が降ったりする。今日も午前中一時的に雨が降ったが、1時間も降っていなかったろう。長女は雨の止んだ直後の道路に出ると、道端の水たまりを見付けて靴のまま入り、ジャンプをして水がはじけるのを楽しんでいる。僕にも、一緒にやれと指図する。案の定靴もズボンもびっしょり。でも、家に入ったら着替えればいいや、と僕もうるさく言うのを止めて、長女の遊びに付き合った。
道端に落ちている物でも子どもにとっては格好のおもちゃだ。子どもの発想は大切にしたい。
昨日は、大型スーパーに買い物に行った後、しばらくの間、他の用事でいなかった妻が車で迎えに来てくれるまで、駐車場横の歩道で子どもたちと待っていた。
子どもの眼の付けどころはすごい。まず次男が、「あ、どんぐり!」と言うので何処にあるかと探してみると、木の枝に付いている木の実を発見したのだった。次男と長男はそのどんぐりを取ろうと木をゆすってみたりよじ登ったり。一方の長女は落ち葉を拾って遊び始めた。長男はそれを見て、道に落ちている落ち葉を1箇所に集めだした。長女も面白がって葉っぱを拾っては落ち葉を山のように積んでいく。たちまち、こんもりした葉っぱの山ができた。「この中で焼き芋できそうだね」と長男。
金沢の天気は変わりやすい。陽が差したかと思うと突然雨が降ったりする。今日も午前中一時的に雨が降ったが、1時間も降っていなかったろう。長女は雨の止んだ直後の道路に出ると、道端の水たまりを見付けて靴のまま入り、ジャンプをして水がはじけるのを楽しんでいる。僕にも、一緒にやれと指図する。案の定靴もズボンもびっしょり。でも、家に入ったら着替えればいいや、と僕もうるさく言うのを止めて、長女の遊びに付き合った。
道端に落ちている物でも子どもにとっては格好のおもちゃだ。子どもの発想は大切にしたい。
有意義な一週間でした
先週は自分で言うのもなんですが、中身のある一週間でした。
何があったかと言うと、先週は金沢市内の公立小中学校の学校開放週間で、誰でも自由に学校内を見学出来るという一週間だったのです。で、上司にもお許しをいただき、授業のない時間は校外に出させてもらい、小学校4校、中学校1校を参観させてもらいました。基本的に参観しに来るのは保護者で、ほとんど部外の人はいませんでしたが、所謂授業参観とか研究授業ではなく、日常の学校の様子をそのまま見ることが出来たのは、本当に貴重な経験でした。
どうしても決められた日程の授業参観とか研究授業だと、教師も気合を入れて準備するし、子どもたちもどこかよそ行きの態度だったりします。しかし、今回のケースは一週間丸々開放しているため、子どもたちも授業の様子も普段通りでした。極めて普通の学校生活を覗くことが出来たのは、教育研究者の端くれにとってはとても意味があるものでした。
クラスの様子も、小学1年生から中学3年生まで一通り見ました。主として時間を割いて見させていただいたのは、小1の道徳と小4の国語・算数、小6と中2の歴史でした。国語の授業はベテランの先生の授業だったこともあり、教科書を読ませながら生徒にじっくりと登場人物の気持ちを考えさせる、「安定感」のある授業でした。一方、ちょうど歴史の授業では奇しくも小6と中2で同じ江戸時代の終焉について扱っていました。深まりのある授業と上澄みだけをすくったような授業の差は何か、考えさせられました。勿論、たかが1時間の授業を見ただけでは分からないことも多いし、今回見たのは表層的でも徐々に深まっていく授業もあるかもしれない。いずれにしても、授業の目的は何か、現場を見ることでより具体的に考えるきっかけになりました。
あと、子どもたちはやはり元気いっぱいですね。授業中も、至る所から子どもたちの声が響いてきましたし、休み時間も廊下や校庭は元気に動き回る姿で溢れていました。自分もかつてはこういう場で過ごしていたんだな、とふり返ってもみることが出来、いい機会でした。今までは文献資料を中心にした研究が多かったのですが、こうした現場の様子を意識しながら今後の研究は進んでいきそうです。
何があったかと言うと、先週は金沢市内の公立小中学校の学校開放週間で、誰でも自由に学校内を見学出来るという一週間だったのです。で、上司にもお許しをいただき、授業のない時間は校外に出させてもらい、小学校4校、中学校1校を参観させてもらいました。基本的に参観しに来るのは保護者で、ほとんど部外の人はいませんでしたが、所謂授業参観とか研究授業ではなく、日常の学校の様子をそのまま見ることが出来たのは、本当に貴重な経験でした。
どうしても決められた日程の授業参観とか研究授業だと、教師も気合を入れて準備するし、子どもたちもどこかよそ行きの態度だったりします。しかし、今回のケースは一週間丸々開放しているため、子どもたちも授業の様子も普段通りでした。極めて普通の学校生活を覗くことが出来たのは、教育研究者の端くれにとってはとても意味があるものでした。
クラスの様子も、小学1年生から中学3年生まで一通り見ました。主として時間を割いて見させていただいたのは、小1の道徳と小4の国語・算数、小6と中2の歴史でした。国語の授業はベテランの先生の授業だったこともあり、教科書を読ませながら生徒にじっくりと登場人物の気持ちを考えさせる、「安定感」のある授業でした。一方、ちょうど歴史の授業では奇しくも小6と中2で同じ江戸時代の終焉について扱っていました。深まりのある授業と上澄みだけをすくったような授業の差は何か、考えさせられました。勿論、たかが1時間の授業を見ただけでは分からないことも多いし、今回見たのは表層的でも徐々に深まっていく授業もあるかもしれない。いずれにしても、授業の目的は何か、現場を見ることでより具体的に考えるきっかけになりました。
あと、子どもたちはやはり元気いっぱいですね。授業中も、至る所から子どもたちの声が響いてきましたし、休み時間も廊下や校庭は元気に動き回る姿で溢れていました。自分もかつてはこういう場で過ごしていたんだな、とふり返ってもみることが出来、いい機会でした。今までは文献資料を中心にした研究が多かったのですが、こうした現場の様子を意識しながら今後の研究は進んでいきそうです。
『ボクの学校は山と川』
マンガ「釣りキチ三平」で知られる漫画家の矢口高雄氏が自分の子ども時代を振り返って書いたエッセイ集、その名も『ボクの学校は山と川』。タイトルから想像出来るように、矢口氏は少年時代を秋田県の山深い寒村で過ごした。釣りをテーマにしたマンガは、正に自分の少年時代の経験がベースにある。貧しい農家に生まれた高雄少年は学校も終わると魚釣りに、昆虫採集に、そしてマンガに夢中になったそうだ。時代は戦後すぐの頃、今のように物が溢れている時代ではなかったが、ないなりにも当時の人たちは工夫して暮らしていた。少年も、虫取り網がなければ、いらなくなった蚊帳を切って針金で丸くし、竹で竿を作る。魚や虫と格闘しながら、自然の中で成長していく様子がよく描かれている。
そんな自然の中で育った高雄少年だが、決して学校嫌いだったわけではない。小学校でも中学校でも、彼の人生を左右する教師に出会っている。教師たちが少年の絵の才能を見抜き、少年を励ましたからこそ、漫画家になりたいという夢を大人になって実現出来た。教師という役割は、それでいいのかも知れない。児童・生徒たちがどんな原石を持っているのかをよく見極め、彼らが豊かに成長出来るのにどんな援助が出来るのかを考えることが、教師にとって大切に思う。そのためには、日頃から子どもと教師がよく関わっていないといけない。どんなに学力向上と言ったところで、それが子どもの必要からでなく、上からの押し付けで行われていたのでは、意味のある学びにはならない。
実際、我が次男は小学校に入るまで全く字に関心がなく、親の私たちも無理強いして覚えさせなかった。ところが、今では小学校前にひらがなが読めるのは当たり前、進んだ子はカタカナと少々の漢字まで既に知っている。親がどんどん先へ先へ学ばせたのだろう。そんな子たちと机を並べたのだから、最初のうちは次男も苦心していたようだが、2ヶ月経って、もう次男はほとんどのひらがなを読めるようになっている。本人が必要に迫られて、学びたいと思うようになれば、子どもは吸収が早いのだ。先へ先へと急がせるのでなく、子どものペースを見守り、子ども自らが関心を持つまで待つ、せめて関心を持てるようにお膳立てするのが、教師の役割だと思う。
高雄少年が自然の中で魚や虫と戯れることが、どれほど少年の心を育てたか。心が解放され、自分で生きていくうちに、人は成長する。この本で、生活の教育力を改めて知ることができた。学校でどんなにプログラム化されても、所詮それは擬似体験に過ぎないのだ。今の時代、こうして自然の中でずっと遊び続けることは難しいだろう。しかし、子どもが学校や親に無理強いされて勉強するよりも、たとえそれが遊びのように見えても、子ども自らが心開き、関心を高めて自分の力で物事に取り組んでいくことの方が、遥かに有意義な教育なのに違いない。
そんな自然の中で育った高雄少年だが、決して学校嫌いだったわけではない。小学校でも中学校でも、彼の人生を左右する教師に出会っている。教師たちが少年の絵の才能を見抜き、少年を励ましたからこそ、漫画家になりたいという夢を大人になって実現出来た。教師という役割は、それでいいのかも知れない。児童・生徒たちがどんな原石を持っているのかをよく見極め、彼らが豊かに成長出来るのにどんな援助が出来るのかを考えることが、教師にとって大切に思う。そのためには、日頃から子どもと教師がよく関わっていないといけない。どんなに学力向上と言ったところで、それが子どもの必要からでなく、上からの押し付けで行われていたのでは、意味のある学びにはならない。
実際、我が次男は小学校に入るまで全く字に関心がなく、親の私たちも無理強いして覚えさせなかった。ところが、今では小学校前にひらがなが読めるのは当たり前、進んだ子はカタカナと少々の漢字まで既に知っている。親がどんどん先へ先へ学ばせたのだろう。そんな子たちと机を並べたのだから、最初のうちは次男も苦心していたようだが、2ヶ月経って、もう次男はほとんどのひらがなを読めるようになっている。本人が必要に迫られて、学びたいと思うようになれば、子どもは吸収が早いのだ。先へ先へと急がせるのでなく、子どものペースを見守り、子ども自らが関心を持つまで待つ、せめて関心を持てるようにお膳立てするのが、教師の役割だと思う。
高雄少年が自然の中で魚や虫と戯れることが、どれほど少年の心を育てたか。心が解放され、自分で生きていくうちに、人は成長する。この本で、生活の教育力を改めて知ることができた。学校でどんなにプログラム化されても、所詮それは擬似体験に過ぎないのだ。今の時代、こうして自然の中でずっと遊び続けることは難しいだろう。しかし、子どもが学校や親に無理強いされて勉強するよりも、たとえそれが遊びのように見えても、子ども自らが心開き、関心を高めて自分の力で物事に取り組んでいくことの方が、遥かに有意義な教育なのに違いない。
"Freedom Writers"を観る
ゆっくり映画を観る時間もなく、映画館には昨夏に子どもとアニメを見にいった以来、行ってない。じっくりといい映画も観たいのだが、中々難しい。ようやく、先日少し無理をして睡眠時間を削って、1本のDVDを観た。"フリーダム・ライターズ(Freedom Writers)"というタイトルのアメリカ映画で、このDVDは昨年の11月に買っておいたものだ。しかし、半年もの間観るチャンスがなかった。
そもそも何でこの映画を知ったのか、というと、昨年の夏にドイツとフランスへ旅行した際、飛行機の中で上映していたのだ。しかし外国の航空会社だったこともあり、確か日本語の字幕も吹き替えもなく、原語で聞かねばならなかったため、内容をよく理解できなかった。ただ、画面を見ていて、どうも教育問題が取り上げられていることが分かったので、エンドロールの際に出てきたタイトルを書き止めて、日本に帰ったら観てみようとずっと思っていた。帰国した時には、既に日本での上映は終わっていたが、秋にDVDが発売されるとの情報を得たので、店頭に並んだと同時に買いに行った。
舞台は1990年代初頭のカリフォルニア。当時ニュースでも話題になっていた黒人に対する白人警官の暴行がきっかけとなって、人種間の抗争が耐えない地域にある高校に、1人の若い白人女性教師が赴任するところから話は始まる。クラスに集まるのは、黒人、ヒスパニック、アジアからの難民が大半で、白人は生徒1名と新任教師1名のみ。彼らは人種ごとにグループを作り、決して他の人種と交わろうとしない。そんな中、新任教師が悪戦苦闘する話なのだが、特に彼ら1人ずつにノートを渡し、書きたいことを好きに書くように促すことで、教室の様子が変化していく。彼らは自分の現在や過去について書くことで、少しずつクラスメイトや教師に対して心を開くようになり、互いの絆を深めていく。なおこの映画は、実話をもとに作られている。
教育とは、教師が熱意を持って語りかけ、生徒に働きかけていくことで、生徒らの心に少しずつでも変化をもたらす作用なのだと、この映画を観て改めて思った。また、日本にも「生活綴り方教育」で自分の生活について作文に綴っていく教育が盛んに行われた時期があったが、生徒が能動的に自分の言葉で語ることで生徒同士の理解が深まり、お互いの結びつきを強めていく場面は感動的だった。自分が受け入れられ、自分を表現出来る場があると、その人は積極性を発揮して成長していく。教育の理想的な姿がここにある。1人1人が活かされる空間を教育現場に作ることが大事なのだ。
1つ気になったのは、この新任教師は自分のクラスへの教育に熱心になり過ぎて家庭生活がおろそかになり、旦那に愛想をつかされてしまう点だ。よく教師は仕事にのめり過ぎて(或いは忙しすぎて)、家庭を顧みない(顧みられない)ことが指摘されている。仕事のせいにして家族をおろそかにするのはよくないが、家族の理解も教師が十分に仕事に打ち込めるためには必要だ。生徒にきちんと向き合っていくために、教師には時間がいる。そうした仕事をサポートしていく体制を如何に整えるかが、大きな問題として残っているように思う。
そもそも何でこの映画を知ったのか、というと、昨年の夏にドイツとフランスへ旅行した際、飛行機の中で上映していたのだ。しかし外国の航空会社だったこともあり、確か日本語の字幕も吹き替えもなく、原語で聞かねばならなかったため、内容をよく理解できなかった。ただ、画面を見ていて、どうも教育問題が取り上げられていることが分かったので、エンドロールの際に出てきたタイトルを書き止めて、日本に帰ったら観てみようとずっと思っていた。帰国した時には、既に日本での上映は終わっていたが、秋にDVDが発売されるとの情報を得たので、店頭に並んだと同時に買いに行った。
舞台は1990年代初頭のカリフォルニア。当時ニュースでも話題になっていた黒人に対する白人警官の暴行がきっかけとなって、人種間の抗争が耐えない地域にある高校に、1人の若い白人女性教師が赴任するところから話は始まる。クラスに集まるのは、黒人、ヒスパニック、アジアからの難民が大半で、白人は生徒1名と新任教師1名のみ。彼らは人種ごとにグループを作り、決して他の人種と交わろうとしない。そんな中、新任教師が悪戦苦闘する話なのだが、特に彼ら1人ずつにノートを渡し、書きたいことを好きに書くように促すことで、教室の様子が変化していく。彼らは自分の現在や過去について書くことで、少しずつクラスメイトや教師に対して心を開くようになり、互いの絆を深めていく。なおこの映画は、実話をもとに作られている。
教育とは、教師が熱意を持って語りかけ、生徒に働きかけていくことで、生徒らの心に少しずつでも変化をもたらす作用なのだと、この映画を観て改めて思った。また、日本にも「生活綴り方教育」で自分の生活について作文に綴っていく教育が盛んに行われた時期があったが、生徒が能動的に自分の言葉で語ることで生徒同士の理解が深まり、お互いの結びつきを強めていく場面は感動的だった。自分が受け入れられ、自分を表現出来る場があると、その人は積極性を発揮して成長していく。教育の理想的な姿がここにある。1人1人が活かされる空間を教育現場に作ることが大事なのだ。
1つ気になったのは、この新任教師は自分のクラスへの教育に熱心になり過ぎて家庭生活がおろそかになり、旦那に愛想をつかされてしまう点だ。よく教師は仕事にのめり過ぎて(或いは忙しすぎて)、家庭を顧みない(顧みられない)ことが指摘されている。仕事のせいにして家族をおろそかにするのはよくないが、家族の理解も教師が十分に仕事に打ち込めるためには必要だ。生徒にきちんと向き合っていくために、教師には時間がいる。そうした仕事をサポートしていく体制を如何に整えるかが、大きな問題として残っているように思う。
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